第6回うおのめ文学賞

■総括■

結果

文責 実行委員長 大江眞輝


 第6回うおのめ文学賞は、小説部門だけの文学賞のエントリー、従来までの投票システムを廃止、また、合評中心のパビリオンと文学賞に分離するなど、システム的にも大きな変革期を迎えての開催となりました。
 この変革にはスタッフ一同、多くの狙いをもって臨みました。
 まず、投票システムの廃止は従来の投票システムの歪みの撤廃だけを意図したものではなく、その先に本賞の担っている文芸的役割(本賞のクオリティの安定がもたらす、広く文芸界全般に対する働きかけ)を最大限有効に活かすために狙いを定めました。また同時に文学賞とパビリオンの分離は、エントリー時に作者自身が「何を目指しているか」という意識を明確することにつながり、作品に対する取り組み姿勢に変化を求めたものでした。
 結果、文学賞では56作品、パビリオンでは7作品と、従来のうおのめ文学賞のエントリー総数に比べるとその数を減らしたものの、参加作品それぞれが一定の覚悟と意識を持って参加されていることがひしひしと伝わってくるものでした。
 実際、エントリー作品の多くが丁寧に推敲を重ねられたと伺える作品であり、基本的な部分をきちんとおさえられていると感じる作品が多数を占めました。
 選考は、まず、私、実行委員長が全作品を拝読し、一次選考を行いました。一次選考で絞り込んだ作品について2次選考で実行委員長を含めた実行委員会(選考委員会)で選考を行い、さらに、私の見解をくわえ込んで、最終選考を行いました。つまり、私は、通算3回以上の通読を行いました。
 第一印象としては、文学賞にエントリーをするという「意識」が明確になっている分、文章そのものの推敲が重ねられ、読みやすさが全体的に増していました。最終選考には残らなかったものの、「天狗山−異形闇伝」(みっきぃ★らんたん著)、「月下に想う」(桜依美野著)などは今までの作者の根気強い積み重ねが開花した作品であるといえます。特に「天狗山−異形闇伝」では、“トキ”という正体不明の異形の登場という特異性がまるで気にならなくなるかのような当たり前の愛情を描き上げたのは、作者の集中力が最後まで続いた賜であると評価でき、作品全体の仕上がりもよくできていると感じました。ただ、作者自身が作品世界に手を汚していないのが残念です。「月下に想う」では、前回エントリー作品同様、作者らしい丁寧な描写で美しい世界を描こうとしていることに好感が持てました。ただ、枚数や作品世界とのギャップが消化不良の元になっていると言わざるを得ないでしょう。今後、これらの作者が、今回の作品の基本形を消化し、新たな独自性を開かせる段階へ入ることを期待しています。
 さらに、性描写、暴力、薬、メンタル的な題材などを扱った作品も前回同様に増加の傾向があるように感じます。
 性描写・暴力に関する議論はちまたにもあふれているので、この場では差し控えたいと思いますが、うおのめ文学賞に求められるものは、センセーショナルな話題など外見やルックスを脱ぎ捨てた後に残るものであり、私は、作品の外観よりも作者の瞳を見ようとしたことを強調したいと思います。つまり、オンラインというモニターを介した作品はとかく、読みやすく、刺激のある作品が求められる傾向があります。しかし、そうした話題性だけではなく、その作者が今作品を書いている意義、世界に二人といない書き手の個別性を重視すること、また、作品に真剣に取り組もうとしている姿勢そのものを見ようとしました。そして、作品に込められた作者そのものを文芸界へと推し上げる決意を持って選考に当たりました。

 さる、7月30日に開催したうおのめ文学賞のチャット会でも、参加者の問いに「意識が一番重要」と答えました。
 この「意識」というのは、一言ではなかなか説明がしにくいもので、一つの側面だけではない「意識」を表現しています。“誰かに読んでもらう”という意識は作品の丁寧な推敲に結びつき、表現の緻密な練り込みにつながります。また、その意識が自ずと自らの傲慢さをぬぐい去り、言葉が読者の中へ自然に染み入るようなものへと変わることが出来ます。「あなたには分からないだろう」という挑戦は読者を不快にさせますし、文章自体の流れを損なうことにもつながります。また、単に、エントリー(オンラインオフラインを問わず)に際しての細心の注意と敬意を払うという「意識」も文学賞に作品を出すということには必要だということもふまえるべきです。これは、勿論、気持ちが高まれば高まるだけ、ケアレスミスが生じるのは仕方がないことで、本賞の大きな目的を考えれば、些細なことではあるので、最大限、スタッフ一同で対応できる案件には対応し、より多くの書き手の才能を発掘することを優先にしたことは言うまでもありません。
 そして、作品としても、一人称、三人称、或いは神的視点など様々な視点で作品を描くという技術論がありますが、そうした技術だけでなく、「語り手」としての「意識」の位置、或いは、その作品を描くという「意識」など、説明しきれるものではないのですが、全体としての作品の意識を求めました。
 ある新人賞の受賞パーティで有栖川有栖氏とご一緒した時のことでした。私は氏とは何度か仕事をご一緒させて頂いているのですが、私が氏にビールを勧めながら選考について尋ねると、「作者が楽しんでいる作品は自ずと読ませる力を持っている」と仰りました。私たち編集の立場にいる人間は素人小説を一年間で2000本は読みますが、まったく、氏の仰るとおりで、私たちが作品を選考するにあたってもっともよりどころとしている基準はその点にあることを再確認しました。作者が苦しんだり理論や理屈で攻めた作品は読者にとっても苦しいものです。表現することを楽しんでいる作品には、独自性が生まれるのです。勿論、読んで貰う作品に仕上げるために、物語としての波の作り方、文章の密度に変化をもたせるなどのいくつかの技巧も必要にはなるのですが、根本的に“選ばれる作品”というのは、表現することを楽しんでいる作品であるといって良いでしょう。
 本賞においても、当然、推敲という基本的な“読んでもらう”ための作業は必要不可欠ですが、創作を楽しみ、表現を楽しんでいる作品というものを重要視しました。ここで改めて申し添えますが、「楽しい」と「楽をする」「簡単」「平易」というのは同義ではありません。また、気迫も大切なことはいうまでもありません。
 厳しいことを言えば、本賞の規定枚数は最大50枚ですが、その枚数の意義を取り違えている作品が多く見受けられました。つまり、人間が描かれておらず、「おはなし」「あらすじ」の域を超えていないのです。規定枚数というしばりはあるのですが、作品が「あらすじ」にとどまっている理由は、
1.枚数という概念の未熟さ
2.作品を書くということを「物語を創る」ことと取り違えている。
ということが挙げられます。まず、枚数に関してですが、特にショートショート部門において、10枚までの作品をショートショート作品と呼ぶということと同義であるかのような錯覚があるように思います。
 何故、ショートショート作品として10枚までで書こうとするのか。そういう「意識」が書き始める段階、或いは推敲する段階で欠如しているともいえます。以前の開催時の総括でも、枚数についての解説を行いました。10枚という枚数で何を表現しようとしているのかという「意識」を明確にすること、また、その表現するべきものに対してスポットライトを充てる工夫を施すこと、が重要です。10枚で語れる物語と考えては失敗します。10枚で人間の何が語れるか、語らずに何を描けるかと考えて、創作の勉強をすると良いでしょう。10枚×400字で4000字。何を書き、何を書かずに表現するのか。その練習法として、
1.制限枚数で何かを描写する練習をすること
2.短歌、俳句、詩など字数的しばりのある作品に多く触れ、「抑制の美」について体感し、学び取ること。(何気ない文章のようでいて、そこに焦点をあてる技術も養われます。)
というのがあるので、試して頂ければと思います。

 勿論、厳しいことばかりを言うわけではなく、本賞にエントリーされたショートショート作品の中でも佳作と言える作品がありました。優秀賞に選ばれた各作品はもとより、「対決」(せぷ著)、「ポケット」(真央りりこ著)はショートショートという縛りを活用した佳作品であるといえるでしょう。
 ところが、残念ながら、掌編小説部門では、目を引く作品に出会えませんでした。最終選考には「紫陽花」「僕の青い四角錐」「メロンの季節」が残りました。「紫陽花」を優秀賞として評価した理由は、第3回うおのめ文学賞の総括でも書いたように、枚数の少ない作品について短編小説の一形態としての体裁が整えられていて、まとまりを見せていたからでした。厳しく言えば、掌編小説エントリー作品の全体としては、何を表現したいのか、という点において曖昧で、奇抜さ、物語のおもしろさに眼をとらわれた作品が多かったように思います。物語のおもしろさを大切にすることは必要なことです。ただ、小説を書く上で、エピソードや物語の波の中に、一つの意味だけを含ませるのはたやすいことです。作品を多面的に立体的に見る習慣をつける必用があります。また、先に触れた独自性ということとも関連するのですが、その作者がその作品を書く必然性が必要です。私小説至上主義という単純な理由ではありません。私小説でなければオリジナリティはないという有り体な理由ではなく、作者が作品の中で何を表現したいのかという切実さ、あるいは、同化し尚かつ突き放した客観性と主観性の共存といえます。そして、“人間”を描くという原点が必要なのです。

 短編小説部門では、小説の基本形をきちんと踏まえた作品が揃いました。ただ、先述しましたように、50枚という「枚数に意識的になって」書かれた作品か、あるいは、センセーショナルな外観やルックスを取り払って作者の目を見据えた時に、気迫を感じる必然性・独自性が感じられる作品か、また、表現することを楽しんでいる作品かという点において目を引く作品は限られていました。
 その中で、「天狗山−異形闇伝」(みっきぃ★らんたん)はのびのびとした文章で、好印象でした。書くことを楽しんでいる、作品世界という生き物を自らに宿して書いたという印象を受け、「トキ」という存在が愛おしく感じました。ただ、田舎の村社会の冷酷さについての作者自身の必然性が見えなかったので、物語に終わってしまったことが惜しい作品です。もう少し文章を整理すれば、50枚で表現するべきものの密度を上げることも可能ですし、今後が楽しみな書き手さんです。
 また、「悪い夢を何度も見たい」(遠藤チアーヌ著)ですが、前作に比べて荒さが目立ち、残念でした。「夢」というループにはまったその奥にあるもの。それを描いて欲しいと思います。ストーリーありきで書かれたのが惜しい。ラスト近くではそのループそのものが一方的に回転してしまって、読者がついて行けない感があります。書かずとも描く実力があるはずなので、惜しい限りです。
 「篭女」(秋山著)は前作同様、性暴力が中心に据えられています。文章の密度とストーリーの展開のうまさ、奇抜な発想はさすがです。ただ、性暴力の向こう側にあるものが見えず、残念です。筆力に深みを保たせる時期は到来しています。期待が大きいだけに、これらのテーマの奥にあるものを描いた作品を読みたいと感じています。
 最終作品として残らなかったものの、特筆したいのが以下の作品です。
「ひとり夕暮れ」(南方 快著)は落ち着きのある筆致で、読みやすさが好印象です。亡き夫の魂の光を見るという話です。一人暮らしの女性にとって、身辺にただならぬ気配を感じることは不安なのでしょうが、そのあたりの不安感が差し迫ってこないのは、文章の密度に変化がないためです。もっと言えば、この世とあの世を結ぶ竹林に意味を深く刻む工夫も必要です。そうした緊迫感、不安感、物語の波を文章の密度で表現することも一つの手法です。
「ポートレート・オン・ザ・ボーダー」(西原夢路著)についてですが、作者は第一回から今回まで皆勤でエントリーされています。その初期の頃に比べ、技術力は格段に飛躍しています。ただ反面で、技術と知識と反比例して、独自性が今回の作品に感じられなかった点が残念です。
「月下に想う」(桜依美野著)美しい古語で流れるようなリズムが心地よく、美しい月の描写によって、幻想的な恋愛の揺らめきを感じます。ただ、この作品も、文章の密度にもう少し意識的になって、物語を動かすことと「揺らすことで動かす」という技法を試されてはいかがかと思いました。
「海に融ける月」(放射朗著)は最終候補に残り、尚かつ、大江推薦作品として評価欄にチェックを入れながらも最終的には優秀賞、実行委員長特別賞の授賞につながらなかった。作者らしい瑞々しい青春小説で、表現や文章の密度にも気を配られ、完成度の高い作品であるが、前作「ありさの放送局」という作品から何か飛び抜けて目を引く飛躍が見られなかったためであり、これからの作者の作品に注目し続けていきたい。

 また、最初の段階では選考に残したものの、かなり粗さが目立ち、最終選考に残らなかった作品もいくつか紹介します。
 「アカノ他人」は作者の奥深い思慮がもったいぶられていて、読者が共有できずにいるように思います。読者を裏切る手法が彼の得意技ではあるのですが、それが走りすぎて、読者が試されている不快感に苛まれます。裏切るという発想ではなく、返し手という発想に転換してみると、全体の印象が変わると思います。
 「会えただけでよかった」は、まさに、粗さが残念な作品でした。作品世界そのもの、視点の低さなど魅力的な要素をもちながら、もう少し時間を掛けて作品を練り込む練習を繰り返した作品をまた拝読したいと感じる作者です。
 「ノスタルジアに厭われて」も粗さが残念です。不要で重複した説明があったり、枚数を使い切れていないのが残念です。50枚キッチリ使い、物語の輪郭を明確にすることが大事でしょう。
 「キンニク男」(山奈やませ著)は事情があって、作品の公開が遅れてしまったのは残念です。時期的に賞の選考からは外して作品を拝見しましたが、非常に興味深い作品です。題材としてもデリケートなものを扱っているのですが、その危うさを感じさせないほど作品の方向性と情感をもっていました。文体にも独特の個性が表れていて、表現の一つ一つが、センテンスのリズムが、とても面白いものであったのも好印象です。上手に綺麗に作品を描くと言うことよりもこうした独特の呼吸感も作品の味わいになるのです。ただ、それだけに、過剰なねじれが見受けられる箇所もありましたが、それは作者の個性として受け入れられるものでした。ただ、コンビニ周辺の地理関係が曖昧で、コンビニ建設前のその場所はどんな場所だったのか、ヨウジはそこでどんな風に星を見ていたのか、そうしたものが語られれば、事件を起こしてこの町にやってきた主人公の内面の動きもさらに鮮明になるのではないでしょうか。

 わかりやすい作品が良いということではなく、作者自身が楽しんで積み重ねる中で、作品を立体的に組み立てることが、読み流す作品から読み込まれる作品への第一歩です。一つの描写、エピソードに意味を重複的に塗り込める、そうした「意識」をもって、読み進みさせ、読みとどまらせる作品への脱却を目指して欲しいと思います。そしてまた、理論や技法を振り回すのも読み手を混乱させるだけです。そうしたさじ加減が文芸という極めて繊細な芸術作法だと言えるでしょう。
 

うおのめ文学賞 実行委員長 大江眞輝
      
         
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